MASAYUMEのキョンサイドです。
Prologueとハルヒサイドを未読の方は先にそちらからどうぞ。
『早起きは三文の得』という言葉は朝寝坊を戒めるための方便として使われていると思うのだが、早い話、そこでは睡眠欲と金銭欲のトレード・オフが成立することが仮定されているというだけに過ぎない。
ということであれば、これは金を払ってでも惰眠を貪りたい輩の存在をなんら否定するものではなく、所詮はその程度の心得に過ぎないのである、と俺は認識している。
まあ、SOS団市内探索で毎回奢らされる羽目に陥っている俺にとっては、それらに起因する経済的危機と、休日の貴重な睡眠欲における相関関係について、深い考察を要するというのは誰の目から見ても明らかな現実であると思うのはあながち間違いではあるまい。
どうでもいい話が長すぎたな。
今の俺にとっては本当に、どうでもいい話なのさ。全くといっていい程にな。
というわけで、といって何のことだか解る奴がいたらそれはそれで大した奴だと思うのだが、それもどうでもいいことだから置いておいて、俺はいつもの行動パターンからすれば一時間近くも早い時間に、寒空の下、いつものハイキングコースを辿っているわけだ。
毎朝恒例、妹の『キョンくーん、起きてー。あっさだよー!』ダイビング・アタックを食らうことも無く早出してきたのは俺にしては滅多に無いことだ。
が、気分は某ラジオ放送の体操で流れる歌のように爽やかかというと、実際は全くの正反対であって、憂鬱状態爆発寸前モードレベル九十九ぐらいではないかと思われてもしかたないかもしれない。
要するに、夢見が悪くて、中途半端な時間に目が覚めてしまっただけだったのだ。
それだけではない。その夢の内容がまた問題だった。
ああ、予め言っておく。隠すようなことでもないしな。夢に出てきたのは誰あろう、ハルヒだ。そして、その夢が以前の閉鎖空間とか神人とかに関係ないものであったことも申し添えておく。
俺にもプライバシーというものがあるから、特にこれ以上詳しくは話さないが、内容なんてこの際どうでもいい。
問題は、そのハルヒの様子だった。
明け方の夢は正夢になる、とか余計なことが頭に浮かんで、その度に俺の心にモヤモヤしたものが溜まっていく。思わず溜息を吐いてしまう俺。ふざけんな――あんなもの、もう二度と見たくも無い。
ハルヒのあんな悲しそうな表情なんてのはな。
一番乗りの教室内で、俺は役立たずの脳内人格を全員集合させて、一人緊急大会議を開催していた。
とりあえず、今日一日、ハルヒの地雷を踏んでしまうことが無いようにしなければな。そもそも、昨日だってケンカまでにはならなかったけど、結構ヤバイ空気だったな、とか俺は思い出した。
たかが夢に過ぎないはずだが、俺は妙に不安だった。思考がマイナス方向にばかり向かっている。それも良くない傾向だ。
ハルヒは妙に鋭いところがあるし、そわそわしている俺のことを不審に思うであろう確率は低くはなさそうだ。
そういえば、途中のコンビニで昼飯用に惣菜パンを買ったときのことだが、店員の兄ちゃんが妙に恐縮していたような気もしたな。ひょっとしたら思いっきり顔に出ちまってたのかもしれない。
ハルヒから正面向かって問い詰められるような事態は、何としても避けたかった。
ハルヒはお構いなしに俺のことを睨みつけるだろうが、今の俺はハルヒの目をまともに見られるかどうかも怪しいところだ。そうこうしているうちに、なんだかんだで下手に話を拗らせてしまって、ケンカになってしまうのは勘弁して欲しい。
うっかり口を滑らせて、ハルヒのことを傷つけてしまったりする可能性も無いわけではないのだ。むしろ、大いにありそうな話だ。くわばらくわばら。
とにかく、自然に振舞わなければ。警戒しすぎるあまり、視線を合わせないように、とかはかえってマズイ。藪をつついて蛇を出すような真似は極力避けるに越したことは無いだろう。
かといって、変に媚び諂ったりするのもどうかと思う。余計に怪しまれること間違いあるまい。普段の俺のハルヒに対する反応から比較して、理由も無く態度を一変させるというのも不自然極まりないことだ。――理由も無くな。
そうだな、せめて何か理由があれば、自然になるかもな。ハルヒに何か問い詰められても、『実はかくかくしかじか』と、言い訳の一つでも用意しておけば、案外うまくいくのかもしれない。
いやまて、逆に思い切り普段の俺らしくない行動を取っていれば、ハルヒのことだから速攻で気付くだろう。それで問い詰められたときに用意していたその理由で切り抜ける。
それも下らん内容の方がいいな。あいつが呆れそうなぐらいで丁度いい。木の葉を隠すなら森の中、というのとは微妙に違ってるのかも知れんが、完璧なカモフラージュだ。
よし、決めた。本日は俺限定の『団長様感謝デー』ということにしよう。って、やっぱりちょっとわざとらしいか? ええい、いっそのこと『SOS団感謝デー』ぐらいにしてしまおう。
ハルヒだけではなく、朝比奈さんや長門、ついでに古泉の野郎にも本日限定でサービス満載といこう。
他のみんなにも同じように接すれば、多少は誤魔化しやすいような気もするしな。まあ、実際のところ、色々と世話になっていることに感謝というのは間違ってはいないわけであるのだし。
というわけで、俺は本日の方針を固め、ちょっとしたイメージトレーニングに励むこととなった。よし、少なくとも、今日一日は笑っていることにしよう。
やることを決めてしまえば、気持ちも楽になるというものだ。さっきまではハルヒの顔を見るのも怖かった俺だが、今ではなんでもドンと来いといった按配だ。ちょっと極端かも知れんな。
その朝、当のハルヒは始業ぎりぎりになってからようやくその姿を見せた。ハルヒが席に着いたのは、担任岡部が教室に現れたのとほぼ同時のことだった。
「よお、今朝はちょっと遅かったな。何かあったのか?」
ホームルーム終了後、俺はハルヒに声を掛けた。ハルヒは一瞬固まったような気がしたが、すぐにいつものアヒル口で返事をした。
「――別に。ちょっと寝坊しただけよ」
「そうかい。ま、たまにはそういうこともあるかもしれんな。俺も実は今日はいつもより早く来ちまってな」
「なによそれ、自慢してるつもり?」
「いいや。でもまあ、いつもと同じ通学路でも、ちょっと時間が違うだけで感じが違うもんだとか思ってな。なんか、こう、調子が狂うっていうか、なあ、ハルヒ。お前もそういうことって無いか?」
「まあね。道路を渡るときとか、普段と交通量が微妙に変わってたりとかね。あっ、そういえば道交法って、確か歩行者優先とかじゃなかったかしら。なのに、あたしが渡ろうとしてんのに全然譲る気配を見せない車共って一体何なわけ、あれ? 正直ムカつくわ!」
多分、いつも通りのハルヒである。それを見て俺は、少々安心した。
「だからって、横断歩道も無いところで、強引に車道に出て事故にあったりしたら元も子もないだろ。あんまり心配掛けんなよ」
一瞬キョトンとした様子だったが、ハルヒはすぐにプイッと横を向いて、
「ふんだ。あたしは、あんたみたいなマヌケじゃないの」
とブーたれた。へいへい、ハルヒ様の仰せの通りですとも。
そのハルヒ様は突然、がっくりと机に突っ伏したかと思うと
「ああ、それにしてもお腹すいた。朝ご飯食べてこなかったのは失敗だったわ。ねえ、キョン。あんたの弁当、ちょっとでいいからよこしなさいよ」
と、のたまわった。
いつもならば、「ふざけんな」とか「ちょっと、とかいって結局全部喰っちまいやがって、鬼かお前は」だとか、そういったやり取りになりそうなところである。だが、本日の俺は普段からは予測不可能なほどに寛容なのさ。
「弁当は無いんだがな。ホラよ、コロッケパンでいいな。クレームは受け付けん」
そう言うと俺は、昼飯用に買っておいた惣菜パンの一つを取り出してハルヒの前に転がしてみせた。
「キョン……」
それに反応してハルヒは顔を起こす。
と、まるでうっかり裏山に着陸したUFOから降り立ったばかりの銀色宇宙人にうっかり出くわしてしまったような、そうでなければ、某二足歩行ロボットが階段を上るデモ中に転倒してしまった現場を目撃してしまったかのような様子ではないか。
目を大きく見開いて正面を、まあ、そこにいるのは俺なので、まあ、要するに俺の方を呆然と見つめているハルヒは俺に尋ねる。
「どうしたの? あんた……」
早速おいでなすった。まあ、朝っぱらからいろいろと思考トレースしておいたのも無駄じゃなかったようだ。
俺は意識的に古泉よろしくニコニコスマイルを取り繕うと
「なんだ、いらないのか? それとも一個だけじゃ足りないか?」
と、平然とパンを勧める。なーに、問い詰められたところで例の『SOS団的サンクス・ギビング・デイ』のことを打ち明けて、ハルヒが『なにを今更』とか呆れて、ハイ、お終い。となるに違いないさ、とか思っていたのだが、
「ん、……あ、ありがと」
と、呟いたハルヒはコロッケパンを手に取り、俺に背を向けてモソモソと喰い始めた。
案外素直な反応に対して、正直拍子抜けした俺だったのだが、ひとまずは作戦成功といったところであろうか。やれやれ。
しかし、ハルヒの奴、いつもとは違ってやけにゆっくりと食べてやがるじゃないか。おい、そろそろ授業が始まっちまうぞ。
その後も、警戒するような様子こそあるものの、ハルヒは俺の振る舞いに関しては何も訊いてくることはなく、いつも通り退屈しのぎのちょっかいを出してくる程度に留まった。
俺は俺で、何をされてもハルヒに抵抗することも無く、微笑みの使徒と化したかのようにスマイル0円状態で、パシリだろうが何だろうが嬉々として引き受けていた。
しかし『笑う角には福来る』というが、案外真実なのかも知れんな。こういうのも悪くは無い、とか思えてしまう。
そういえば、古泉の万年笑顔状態を端から見て大変なんだろうな、とか考えていた俺だったが、実はあいつはあいつなりに結構楽しんでいるじゃないのか? とさえ思えてくるね、今の俺にとっては。
しかし、少々やりすぎなのだったのかもしれない。『俺的SOS団大感謝祭』の枠をはみ出して、クラスメイトのみんなにまでニコニコ状態を維持してしまっていた俺は、谷口の野郎から
「何だか今日のキョンは薄気味悪いぜ。変なもんでも喰ったんじゃないんだろうな?」
とかツッコミをくらう始末だ。不思議と腹は立たなかったがな。
国木田はあまり意外そうな様子もなく、
「ホント、何だかすごく機嫌が良いみたいだね。僕の想像だけど、昨日あたりによっぽど嬉しいことでもあったんじゃないのかな?」
などと普通に感想を述べて、いつも通り生暖かい視線で俺とハルヒの方を見ていた。
そんな俺の背中にハルヒのシャーペンの先が刺さる。正直痛い。どうせ突っつくんなら反対側にしてくれ、と、いつも言ってるんだが、その俺の願いが聞き入れられたことは今のところゼロ、である。でもまあ、ここは我慢のしどころだ。
「どうした、ハルヒ。何か俺に用事でもあるのか?」
「なんでもない」
どうでも良さそうな返事しか返ってこなかった。窓の外をボーっと眺めているハルヒを見ても俺はまだ何も気付いていなかった。
本末転倒というか、目的と手段を誤った末の悲劇というべきだろうか。
調子に乗った俺は、何故そもそも今日一日の自分がそのような行動をとってきたのかという動機が頭の中から消失していたのかもしれない。
早い話、ただのバカだったのだ、俺という男は。
一日微笑三太郎と化した俺は、暴走した核融合炉のごとく、クラスのみならず、校内中にスマイル・エナジーを放射しまくり状態であった。
後から考えれば、周りの生徒たちは、不気味なものを目の当たりにしてさぞかし驚いたことだろうとか思う。何とも思わなかったのは、おそらく休み時間にすれ違った鶴屋さんぐらいなんじゃないだろうか。
「やあやあ、キョンくん。めがっさ上機嫌だねっ。今日も一日絶好調っ! にゃはははは」
とか、いつもと大して変わらないハイテンション状態だったのは、俺がいつも鶴屋さんに笑顔で接していたからだろう。
いや、多分、鶴屋さんと対面して笑顔にならない奴なんてこの世にいるとは思えない。いやはや、すごい先輩だな。とても敵いませんよ、この人には。
放課後になる頃には、俺の博愛原理主義的経験値は怪しげなツールによって書き換えられたセーブデータの如くカウンターストップに達してしまった様子で、ハルヒが本日の掃除当番であることを知った俺は、その代わりを引き受ける旨を申し出たのだった。
「え、でも、キョン、あんた昨日も掃除当番だったじゃないの」
普段ならこれ幸いと部室にすっ飛んで行きそうなものなんだがな。
「そんなこといちいち気にすんなって。掃除当番なんて面倒事は雑用の俺にでも任せておけば良いのさ」
ハルヒは俺の方を見て、何か言いたそうにしていたが、
「解ったわ。じゃ、あとはよろしくね」
と、あっさり了承して先に部室に向かうことに決めたようだ。
「キョン。――さっさと終わらせて、早く来なさいよ」
立ち上がって歩き出したハルヒの背中に向かって、俺は何気なく言葉を掛けた。
「おう。みんなによろしくな」
「!」
ハルヒは一瞬ビクリと立ち止まったが、振り返りもせずに駆け出していった。
ボランティア症候群に憑かれてしまったかのような俺は、面倒な雑巾掛けからごみ捨てに至るまでを率先して行い、かといって嫌々ではなく自主的に行う作業の効率的な進展具合によって、さほどの時間を掛けることも無く所定の任務を完遂させた。
教師連中も一体何事か、みたいな表情を浮かべていたが、もはやそんな些細なことを気にする俺ではなかった。
いつもの文芸部室改めSOS団アジトに到着した俺はドアをノックし、魅惑のエンジェル・ボイスが「は~い」と舌足らずに奏でられるのを聞き届けた上で、ちわーっす、とか挨拶しながら室内へと歩みを進めた。
やはりというか、俺が来たのは最後だったようだな。
未来からの愛と美の伝道師にして小柄なメイドさんと、広辞苑ぐらいはありそうな厚さのいわくありげな洋書と対決中の無口なコズミック・ヒューマノイドの姿を確認する俺。
本日の俺が手本とさせてもらったほどのスマイル・エキスパートにして怪しげな機関の誇る状況限定超能力者野郎はこの際脇においておく。
先に来ていたはずのハルヒの奴は、パソコンのディスプレイの陰にでも隠れているかのようにコソコソしているのであった。
「キョンくん、おつかれさま。今、お茶淹れますね」
いそいそと、嬉しそうにお茶の準備をする朝比奈さんのお姿を見ても、今の俺はそう表情を変えなかったはずだ。なんせ、既にスマイル・モード全開なわけだし。
しかし、そうだな。今度から心からの笑顔を作る必要があるときは、朝比奈さんの事を思い浮かべることにすれば良いのではないか。うむ、俺としたことが、全く気付くのが遅すぎるぜ。
古泉は、俺の方を見るなり、妙な目配せをしたかと思うと、
「おや、本日は一段とご機嫌がよいみたいですね。あなたのおかげで室内の照明の機能がいくらか上昇しているようも思えます」
と、言った。
「そりゃ、便利でいいな。まあ、省エネに貢献出来るというのなら、俺も本望だ」
しかし、そういうことを野郎相手に平然と口に出来るお前って、実はとんでもなくすごい奴なのかも知れんな、古泉。
少々意外なことに、長門は読んでいた本からしばらく目を離して、純度9Nクラスの水晶の如き双眸を俺の方に向けていた。
「…………」
初めて鏡を見た子犬だか子猫のごとく固まっていた長門だったが、やがていつものように本に意識を集中させたようだ。俺の様子が余程物珍しかったのだろうかね。
「思ったより、早かったわね」
ハルヒは俺の方も見ずに、わざとぶっきらぼうな感じでいった。
「まあ、今日はなんとなくな」
がたん、とハルヒの方から大きな音が聞こえた。なんだ? 何か動揺するようなことでもあったのか? 例えば、ネットサーフィン中に、いわゆる、精神的ブラクラとやらでも踏んじまった、とか。
「キョンくん。はい、どうぞ」
待望の朝比奈印ジャパニーズ・グリーン・ティの登場である。…………うん。なんだろう、今日のお茶はいつにも増して美味なことこの上なしですよ。
「そ、そうですか? あの、初めて淹れてみる種類のお茶の葉だったし、失敗しちゃったんじゃないかって、ちょっと不安で……」
「いえいえ、朝比奈さんの淹れるお茶に失敗の二文字は無縁ですよ」
「ふぇっ! そ、そんなにお世辞いっても、なんにも出ませんよぉ」
「お世辞なんかじゃありませんよ。朝比奈さんのお茶のためであれば、たとえ地球の反対側からでも駆けつける自信があります」
ごががん、と物音がした。
足元になにやらゴロゴロ転がってきた。何かと思えばマウスだった。古泉が拾い上げてハルヒに渡す。
「どうぞ。あの――涼宮さん、どうかなさいましたか?」
「えっ、あ、ありがとう。古泉くん」
何故か解らないが、マウスの受け渡しの姿勢のままハルヒも古泉も硬直してしまったようだ。
ちょっとした沈黙。
古泉の表情が何だか引きつっているように見えたのは気のせいだろうか? なんというか、深海から浮上した名状しがたき姿の超古代の邪神に睨まれて石化してしまったかのようである。
「な、なあ、古泉。最近の調子はどうだ? バイトとか、その、あんまり行かなくなったみたいだし」
無理やりかも知れんが話を振ると、古泉は天界から降りてきたクモの糸でも発見したような表情で俺に答えた。
「あ、ええ。おかげさまでね。ここしばらくは、まさに『暇』の一言に尽きます」
ま、忙しくて大変とかそういう心配は要らないわけだな。いつぞやはお前がぶっ倒れたりしないかヒヤヒヤしたもんだがな。今は一安心ってところか。
「もっとも、それはそれで、僕自身はクビの心配をする必要があるのかもしれません」
いつものように両手を開いた仰々しいポーズで苦笑して見せ、古泉はパイプ椅子に腰を下ろす。
「しかし、あなたから労いの言葉を掛けていただけるとは。今日の雰囲気といい、なにかこう、まるで悟りを開いた慈悲深い聖人みたいではありませんか。若しくは、何かの陰謀が進行中で、あなたは僕に油断させるためにそのように振舞っているとか――冗談です」
「茶化すな。俺にだって、たまにはこういう日があってもいいだろ」
ふと、ハルヒの方を見ると、パソコンに向かうのを止めて窓から外を眺めているようだった。
そういえば、まだまともに話をしていなかったなと思い、俺は長門に声を掛けることにした。長門となら本の話題とかは無難そうだが、そういえば、知り合って間もない頃にそうしようとして玉砕したんだっけな。
ええと――、
「なあ、長門」
「……なに?」
読書モードのまま返事が来る。
「前に、お前に借りた本なんだが、あれって確か続編もあったよな」
長門は、顔を上げると、自分の鞄からなにやらあの睡眠導入剤を連想させるようなカタカナタイトルの本を無造作に取り出した。
「……これ」
ああ、確かこの本だ。以前の俺が自爆したときのな。しかし、結構分厚い本だが、まさか、いつも持ち歩いているというわけじゃあるまいな?
それか、実は長門の鞄の中は、某未来製猫型ロボットみたく四次元空間につながっていたりとか。長門のことだからありえない話でもなさそうだ。
俺は長門から手渡されるままにハードカバーを受け取る。しかしな、俺の読書ペースでは最終ページまで到達するのはいつになるのか予想がつかんぞ。
「返さなくていい」
前に本を借りたときもそんなことを言われたっけな。流石に今度は栞にメッセージ、というわけでもないだろうが。
「いや、しかしだな……」
「二冊目。誤って重複購入した。迂闊」
なんとまあ、長門でもうっかり同じ本をダブって買ってしまうことがあるとは。俺の印象からすれば、自分の蔵書どころか図書館にある本の全てまで把握していそうな気がするんだが、案外お茶目なところがあるではないか。
長門から言葉を拝借して『ユニーク』とでも言ってやろうかとも思ったが、なんとなく止めておいた方がいいような気がした。
「進呈する。これもなにかの縁」
それが何の縁かは俺に解るわけもないのだが、どうやら長門もあの日のことを覚えていたらしい。
「解った。ありがとうな、長門。大切にするよ」
長門は例によってミクロの頷きでもって答えた。俺には、そんな長門の様子がが僅かにだが嬉しそうに見えて、どことなくむず痒いような照れ臭さを覚えた。
さてさて、大トリは団長様だな。本日の『俺様超絶感謝フェスティバル』の総仕上げアンド種明かしといきますか。
しかし、今日のハルヒは動作音がやかましい割には、長門並みに無口とまではいかないだろうが、とにかくあまりしゃべらなかったような気がするな。
「えーと、ハルヒ。ちょっといいか?」
「…………」
こちらを見ようともしない。シカトされているはずはないんだが。
「ハルヒ?」
「……聞こえてるわ。なに?」
わざとらしく咳払いして、俺は続けた。
「今までお前は、無茶なことばかりしてきたし、それに振り回されて疲れるのはもっぱら俺だったわけで、まあ、それが嫌だったかというとそういうわけでもなくて、なんだかんだで色々楽しかったと思う」
ハルヒの奴はこちらを振り向く気配も見せない。まあ、気にせず続行、と。
「もちろん、お前だけじゃなくて、朝比奈さんや長門、ついでに古泉も含めてみんなにはお礼の言葉いくらを贈っても足りないぐらいだと思ってる。無論、これだけの面子を集めることが出来たのも、団長であるハルヒの手腕に依るところ大であって、その……」
なんだか、先に進むにつれて、支離滅裂というべきか、グダグダ感が増加していく。どうやら俺はこういうのには向いていないようだ。既にテンパリ度最大値である。声も上ずってきやがったぜ。
朝比奈さんは、なんだかよく解っていないんだろう、椅子にちょこんと腰掛けてまじめな顔で俺の話に聞き耳を立てている。長門も本から顔を上げて、俺の方を不思議そうに眺めている。
古泉の奴は多分大まかな事情は察したのであろう、俯き加減のその顔は一見マジなようで、実は吹き出しそうになるのを必死でこらえているに違いない。
「なんだ、まあ、要するに、俺がハルヒに言いたいのは『ありがとう』ってことだ。もうお前も気付いてるとは思うが、実は……」
がたたん、と椅子の音がしてハルヒがまた立ち上がった。っておい、肝心のネタバレはこれからなんだがな。
「……聞きたくない」
はあ? どういうことだ、一体?
「――帰る」
そういったかと思うと、ハルヒは何故か自分の鞄も持たずに、部室から出て行こうとした。手ぶらで帰るつもりなのだろうか?
「おい、ハルヒ。待てよ」
「来ないで!」
振り向いたハルヒは、今にも泣き出しそうな目をしていた。
何の冗談だろうね、これは。
ハルヒのその顔は、紛れも無く俺が今朝方に夢で見た、『悲しみ』の表情そのものを浮かべていたのだった。
呆然としていたのだろう。ハルヒが出て行ったのにも気付かず、俺はしばらく立ち尽くしていた。
俺が正気を取り戻したのは、古泉の携帯電話の着信音が鳴り響いたときだった。
古泉は、通話を終えるやいなや、神妙な声で告げた。
「失礼。先程のお気遣いの直後で申し訳ないのですが、どうやら久々のバイト出勤のようです。……あなたは早く、涼宮さんの元へ」
朝比奈さんも、握り拳と涙目で俺に訴えかけてくる。
「キョンくん、早く行ってあげて。きっと涼宮さん、キョンくんのこと待ってるはずですから」
「でも、ハルヒは、来るなって……」
「違うの! 男の人は、女の子から『来ちゃだめ』って言われても、ううん、そう言われたときこそ、なにがあっても絶対に行ってあげないと、そばにいて支えてあげないとだめなんです!」
朝比奈さんは、大泣きしながら、俺のことを叱った。見えない平手打ちをまともにくらった程の迫力があった。こんな朝比奈さんを見るのは正直初めてだ。
面目ありません。俺、そういうのって良く解らないんですが、今はとにかくハルヒを追いかけることにしますよ。
部室を出ようとした俺の制服の端が引っ張られ、急制動が掛かる。と、このパターンは長門か。俺は後ろを振り向く。
「涼宮ハルヒは現在、あなたたちの教室に戻っている。……急いで」
解ったよ長門。すまんな、いつも。
俺は自分の鞄とハルヒの鞄を手に取ると、五組の教室に駆け足で向かった。
教室に付くと、ハルヒは自分の席で頬杖を付いて窓から外を見ていた。俺が来たことに気付いた様子はあったが、こちらを見ることも無ければ、逃げ出す素振りも見せなかったので、俺はそのままゆっくりと近付いていった。
「ハルヒ」
「なによ?」
「鞄、忘れてたぞ」
「あっ――!」
やっとこっちを振り向いてくれた。どうやら泣いているわけではないようで一安心、といったところか。
自分の鞄をひったくると、ハルヒは、一瞬微笑むような様子を見せた。が、すぐに思いつめたような表情に変わり、おずおずと訊いてきた。
「キョン……あんた、やっぱり転校しちゃうの?」
はあ? 転校? そりゃまた一体何のことだ?
「だって、あんた、さっき……」
「何を勘違いしたがしたかは知らんが、俺はどこにも転校なんかしたりしないぞ」
呆然とした様子のハルヒ。
「ほんと?」
「嘘ついてどうする?」
「でも……」
そのまま俯いてしまうハルヒ。

俺たちが固まっていたのは一体どのくらいの時間だったんだろう。沈黙がこんなに辛いものだとはな。
「なあ、もうそろそろ下校時間だし……俺たちも帰った方が良くないか?」
そういって、俺は半ば無理やりにハルヒを連れ出した。ハルヒはしばらく無言のままではあったが、大人しく俺の後を付いて来てくれた。
「今日のあんたって、様子が変だったじゃない。ずっとニヤニヤしてるし、妙に気前もいいし」
帰り道、いつもの坂道をしばらく二人で並んで歩いていると、ハルヒの方から話を切り出してきた。正直、ありがたかった。こういった場合、俺の方からは何を言い出したらいいものか解らなかったからな。
「ただ、なにか企んでるような感じには見えなかったのよね。それに……まるで慌てて思い出作りでもしてるような雰囲気で、だから、あたしはてっきり」
大した想像力だな。はっきり言って尊敬モノだぞ、その発想は。それにしてもいきなり転校とか、急過ぎるだろう、普通。
「あの朝倉だって、なにも言わずにいきなり転校しちゃったじゃないの。しかもカナダとか」
そういえば、一応はそういうことになっていたな。こいつを含めた何も知らない人たちにとっては、朝倉は、今やカナダの住人だ。
「掃除当番だってあんたみたいな面倒くさがりが二日連続、しかもあたしの代わりを立候補だなんて、どう考えてもおかしいじゃないのよ。しかも『みんなによろしく』だとか」
それは単に「掃除当番で遅れる」ってのを伝えて欲しかっただけだったんだが。
「ああ、うん、そういう意味だってのは解ってたわよ。でも、その言葉自体、ちょっとビックリするじゃないの」
そんなことでビックリされてもな。普段のこいつからは考えられないくらい神経過敏状態じゃないか。
「部室でも、みくるちゃんと話しているときに『地球の反対側から』とか言ってるし、いつもと違って古泉くんを邪険にあしらってる感じもないし、有希から本を貰って『大切にする』とか言い出すし」
なるほど、部室でのこいつの挙動不審はそれらのキーワードが原因だったのか。しかしまあ、俺が南米のどこかにでも移住するとでも思い込んだのだろうか。相変わらず極端な奴である。
「いつ『実は、転校することになった』って打ち明けられるんだろう、そればかりを考えてて、でも、それを聞いてしまうのが怖くなって、一人で狼狽えてた……。そしたら、とうとうキョンが、まるでお別れの挨拶みたいなこと始めるじゃない。それで……」
なんとまあ、ハルヒの頭の中で、そこまでストーリーが出来上がっていたとはな。
ハルヒは自分自身を呪うかのような深い嘆息の後、ポツリと呟いた。
「何だかバカみたいじゃない、あたし。一人で変に勘ぐって、勝手に誤解して。ただのマヌケだわ」
そのとき、俺は何も言えなかった。
ただ一つ明らかなことがある。
それは、今までに見たことも無いような表情を浮かべて遠くを見ているハルヒの横顔に見惚れながら、ボーっとしている俺の方が余程のマヌケ面だったに違いない、ということだ。
「ところで、キョン。そもそも、あんた何で一日中人格者ぶってニヤニヤしてたの? なにか理由があるんでしょ? 教えなさいよ」
そのお前の言うところの『お別れ挨拶』で全部話すつもりだったんだが、中断させたのはお前だ。
「どうでもいいでしょ、そんなの。つべこべ言わずに洗いざらい白状しなさい!」
解ってるって。しかし、そういえば何でだっけな? 忘れちまうところだった。
思い起こせばハルヒの地雷を踏まないように今日一日努力を重ねてきたはずだったのだが、結果的には火薬庫に向かって延びる導火線に点火するのと大して変わらない行為だったんじゃないのか、と、大いに凹んだ。
流石に今朝の夢の内容を話すわけにもいかず、俺は用意していた言い訳を今更ながら使わせてもらうことにした。
「あー、実は個人的に今日一日はSOS団のみんなに感謝をこめて、俺的サービス・デーを開催していたわけなんだ」
ハルヒの目が点になったかと思うと、それはやがて軽蔑の眼差しとかいうジト目に化けたことをわざわざ俺の口から語るまでも無いであろうことはいうまでもない。
「なによそれ、そんなの今日に限ってするようなことでもないでしょ、今更。大体キョンは常日頃から団長のあたしを含めSOS団みんなへの感謝の気持ちが全然足りないの。心がけの問題なんだからね。解ってんの、キョン?」
やはりというべきだろうか、俺が予想していた通りの返答がほぼそのままハルヒから告げられた。
その後俺は、憤慨した様子のハルヒの口から撒き散らされる有難い文句の数々を拝聴しながら、コロコロと変わるその百面相の如き表情を眺めていた。
まあ何にせよ、いつものハルヒに戻ったらしいな。まさに、やれやれだ。
「……なによ、何でまたニヤニヤ笑ってんのよ。気色悪いから止した方がいいわ」
申し訳ないんだが、一日中笑顔でいたためかクセになっちまったのかもな。勘弁してやってくれ。
「ふんだ。柄にもないことするのがいけないのよ。大体、普段からもっとそうやって、あたしのために笑ってくれたり、もっとあたしに優しくしてくれてたら、変な勘違いせずに済んだのに……」
「おい、ハルヒ。お前、まさか俺に――」
「な、何でもないわよ……バカキョン」
俺の言葉を遮ると、ハルヒはブンむくれて早足でさっさと俺から離れてしまった。
全く困った団長さんだな。さっきのお前のセリフをそっくりそのまま返してやるぜ。
もっとも、俺は別にハルヒに優しくして貰おうなんてことは望んだりはしないのさ。ただ、いつものあの周囲の気温が数度上昇したかのような笑顔を傍で見られるなら、それだけでも十分だからな。
そのためなら、お前の奇天烈なパワーが原因の騒動の一つや二つに巻き込まれても構わんね。まあ、たまに文句ぐらいは言いたくなるかも知れんが、そのぐらいは勘弁してもらいたい。
第一、お前には、悲しそうな顔は似合わないのさ。不景気な顔されてたら、なんだか俺の方も困っちまうからな。
なあ、ハルヒ。よろしく頼んだぜ。
エピローグに進む。
